くろがねのみち

友蚋炭鉱人車軌道

台北駅から基隆方面に5つ行ったところに五堵(ごと)という普通列車だけが停車する駅があります。ここは1970年代末までには基隆炭鉱鉄道と、人力による軽便鉄道がありました。どちらも台湾で最後まで残った路線の一つでした。人力による軽便鉄道「人車」は「手押し軌道」または「人力車」などとも呼ばれ、台湾では「台車」と表記されます。炭砿で掘り出した石炭を運ぶほか、地元の人々の簡易な交通機関として利用されました。簡便な交通機関と考えられますが、かつては主要な交通機関としてひろく台湾全土で広く利用されました。しかし、経済成長を成し遂げた台湾では、五堵や友蚋は台北の通勤圏として郊外マンションが建ち並び、当時の面影はあまり残っていません。特に人車はあまり顧みられることもなく歴史の彼方へと消えていきました。

縱貫線五堵駅

縱貫線五堵駅

当時の台湾は全線非電化で、五堵駅には小編成の区間運転のディーゼルカーやディーゼル機関車のひく客車列車が走っていました。旅客扱いだけでなく専用線からの石炭の貨物があったので、構内はかなり広く本線の貨車に石炭を積むためのベルトコンベヤーが並んでいました。現在この区間は高架化されていて、鉄道の様子はまったく変わっています。

人車軌道終点(1)

人車軌道終点(1)

五堵を訪問する前の主な関心事は基隆炭砿の蒸気機関車でした。だだし、けむりプロ「鉄道讃歌」に基隆炭鉱鉄道の地図があり、人車軌道の路線も書かれていたのを見たことがありました。しかし実際にそれがどの様なものか具体的なイメージも湧きませんでした。今になって考えれば、もっとちゃんと調べれば良かったのですが、当時は台湾の人車についての情報はほとんどありませんでした。

人車軌道終点(2)

人車軌道終点(2)

蒸気機関車で輸送する炭砿と人車で輸送する炭砿は別組織で、それぞれ五堵駅に石炭の積込施設を持っていました。人車の線路は基隆河を渡って五堵駅の近くまでのびてきていました。この人車には駅と言えるようなはっきりした乗降の設備はありませんでしたが、終点です。

人車軌道終点(3)

人車軌道終点(3)

河を渡った五堵駅側の人車の線路は左右に分かれて延び、その先には石炭の積み卸し場が広がっていました。ここで降ろした石炭(左側の線路下の山)は右側にあるベルトコンベアーを使って、柵のすぐ外側の貨車に積み込みます。

基隆河の吊り橋(1)

基隆河の吊り橋(1)

当時基隆河に3つの吊り橋がありましたが自動車が通行できる橋はありませんでした。一つは基隆炭鉱の石炭の貨車をケーブルで引く線路用、人が歩いて渡る橋、そしてもう一つがこの人車用の橋でした、どの橋も同じ様な吊り橋です。

基隆河の吊り橋(2)

基隆河の吊り橋(2)

橋は非常に細いワイヤーで吊っただけの橋でした。現在これらの3つ橋はすべて撤去されています。橋があった場所には頑丈な新長安橋が出来ていて自動車がひっきりなしに通っています。さらに平成23年(2011年)には歩行者と自転車が渡れる郷長厝橋が出来ました。

沿線風景 郷友街(1)

沿線風景 郷友街(1)

橋を渡ると高架橋があり、その下は人車や人が集まるちょっと賑やかな駅の様な場所でした。本線以外にいくつかの側線があり、道路の上にも人車の車輌が置かれていました。

沿線風景 郷友街(2)

沿線風景 郷友街(2)

それまで右側を走っていた人車がここでは左側を走っていきました。右側の線路は側線の様です。まわりには荷物を積んだ人車や待機している車が線路脇に置かれていました。ここには商店もあり、人車を押す人や乗る人が集まっていて、賑やかな場所です。

沿線風景 郷友街(3)

沿線風景 郷友街(3)

線路上には石炭を運ぶ貨車が放置されていて、子供が乗って遊んでいました。この人車の線路幅は495.3mmですので、基隆炭鉱鉄道とは異なります。傍らではほうきを担いだひとが歩っていました、このような物売りの姿も現在はなくなってしまったことでしょう。

沿線風景 トンネル

沿線風景 トンネル

数キロある人車の路線は変化が富んでいましたが、最も興味深かったのが、掘り抜きのトンネルです。それまで複線だった区間はトンネルの手前で単線に変わり、電気もなにもなく出口の明かりをたよりにトンネルに入っていきます。トンネルの中間には、両方から入ってきた場合の交換設備が設けられていました。残念ながらトンネルの中では写真が撮れませんでしたので、これは五堵側の出口を出たところです。

沿線風景 華新一路(1)

沿線風景 華新一路(1)

線路の大部分は複線です。通行区分は右側通行でした。台湾の国鉄は日本時代からの影響で左側通行ですが、この人車は台湾の道路交通と同じ右側通行でした。左側には1965年まで使われていた井戸の跡があります。

沿線風景 華新一路(2)

沿線風景 華新一路(2)

人車の軌道は非常に細い線路が多かったのですが、部分的には重軌条(それでも17kg/mくらい)で、機関車が走る基隆炭鉱鉄道と見間違うほとでした。人車を押す人は右足を線路上に左足を枕木のある地面に置くのが標準的でした。

沿線風景 華新一路(3)

沿線風景 華新一路(3)

基隆炭鉱鉄道と友蚋炭鉱人車軌道は完全に併走しているわけではなく、ところどころで離れ、また出会うというふうになっていました。道路には自転車やオート三輪、水牛に引かれた荷車が走っていました。台北では自動車が溢れていたのに、ここはまだ大きな車は通れない道幅でした。

沿線風景 華新一路(4)

沿線風景 華新一路(4)

どの様なときに折り返しが必要なのかは分かりませんが、途中所々に渡り線がありました。ポイントは切り替え式ではなく、押す人の押し方の操作によって人車を進む方向決めるものでした。

沿線風景 華新一路(5)

沿線風景 華新一路(5)

当時の台湾(中華民国)は、まだ大陸の中華人民共和国と激しく対立していた時代で、戒厳令がしかれていました。そのため鉄道に対する写真撮影にも非常に大きな制限がありました。実際五堵には陸軍の駐屯地があり、また高速道路が建設中であったため、警察官の職務質問を受け、もう少しでフィルムを没収される所でした。町のあちこちには、この様な政治スローガンを見かけました。ここには「共産党を滅ぼして、大陸を取り戻す」と書かれています。

沿線風景 華新一路(6)

沿線風景 華新一路(6)

ここは単線区間ですが、どの部分でも線路上は人が歩くために雑草も生えていません。この先には廟があり、人が集まって線路を塞いでいましたが、人車のことゆえ事故もなく走り抜けて行きました。単線区間で人車が出会った場合、笛で合図して待つか、五堵方面に進む人車が優先する、あるいは重い荷物を載せた方が優先など、決まりがあったようですが、どれが正しいかは現在では不明です。

沿線風景 華新一路(7)

沿線風景 華新一路(7)

沿線の風景は変化に富んでいますが、家の裏を抜けていくこの区間は、とても人車とは思えず、となりの基隆炭鉱の蒸気機関車が走る線路と見間違うほどでした。なかなか本格的な鉄道の雰囲気がある部分もありました。

沿線風景 華新一路(8)

沿線風景 華新一路(8)

複線を確保する場所がない区間は単線になり、家の軒先をかすめて線路は進んでいきました。地形に逆らわないで進むため、結構勾配がきつい区間もあるようです。何しろ人間が押すのですから、少しの勾配でも大変です。特に重量がある石炭貨車は勾配のある個所で補助する専門の労働者がいて、1日8元の収入になったそうです。

沿線風景 華新一路(9)

沿線風景 華新一路(9)

五堵から2.3kmの地点は「港口」とよばれ、戦前にはここまでかなり大きな船も入って来たそうです。ここにある「順益商號」はいまでも同じ場所にあります。下を流れる友蚋渓は同じように流れていますが、道路は拡張され、バスも通過する大きな十字路になっています。当時、人車のすぐ脇には亜熱帯の植物が茂った深い藪があり、蛇が生息しているので入らないように注意されました。この辺の藪にいる「百歩蛇」という毒蛇に咬まれると百歩も歩かないうちに死んでしまうと脅かされました。

沿線風景 人車橋

沿線風景 人車橋(1)
沿線風景 人車橋(2) 沿線風景 人車橋(3)

途中で見かけた橋です。橋桁は木ですから木橋というべきでしょうか。木の橋桁に軌条を乗せただけで、軌条の剛性で強度を維持しているものです。橋の前の軌条との重さの違いをご覧ください。人車を押す人は通常は枕木の上を歩っていきますが、橋の上では器用に線路に足をかけて歩っていきます。

沿線風景 華新一路(10)

沿線風景 華新一路(10)

のべつ連続で人車が走っているわけでは無いようですが、場合によっては連続でいくつもの人車が荷物や人を乗せて走っていました。これらの人車は自家用です。地元の人は誰でも人車を購入することはできましたが、運行するためには、炭鉱会社に線路使用料を支払う決まりになっていました。一番後ろの人車の上は基隆炭鉱鉄道の線路で、ここでは人車と直角に交差しています。

沿線風景 人車の走行風景

沿線風景 人車の走行風景(1) 沿線風景 人車の走行風景(2) 沿線風景 人車の走行風景(3)
沿線風景 人車の走行風景(4) 沿線風景 人車の走行風景(5) 沿線風景 人車の走行風景(6)
沿線風景 人車の走行風景(7) 沿線風景 人車の走行風景(8) 沿線風景 人車の走行風景(9)

人車では人や実に様々な荷物が運ばれました。乗客も押す人も積み荷もいろいろでした。炭鉱に付属した人車軌道なので、石炭の運搬もあるはずですが見かけませんでした。人車で旅客を乗せて運ぶのは女性の仕事で、男性は石炭の運搬で働くとのことでした。旅客用の人車の定員は最大4人で、収納箱兼用の椅子の上に座る様になっています。この箱は置いてあるだけなので、大きなものを乗せるときには取り外し、または位置をずらすこともできました。下り坂を走るときには押す人が前に乗り、棒をテコにしたブレーキを操作してスピードを調節しています。 。

沿線風景 華隆炭鉱へ

沿線風景 華隆炭鉱へ

「順益商號」のところで線路は分岐し、直進する単線は華隆炭砿に向かいます。勾配もきつくなっています。荷物が重いときは一人では運べず、二人がかりで押していました。勾配がある場所には、そこで補助のために待機している人がいたそうです。やはり人車は楽な仕事ではないと実感した場面です。

沿線風景 人車の車輌(1)

沿線風景 人車の車輌(1)

人車の車両は、四隅に押すときにつかむ棒があり、中央には座る時の椅子代わりの箱があり、この箱には荷物を収納することが出来ます。当時五堵と鹿寮に人車製造の工房があり、1台800~1000元で作成してもらえたそうです。その他中古でも取引が行われていました。この箱は固定されているわけではなく、たんに置かれているだけなので取り外すこともできます。

沿線風景 人車の車輌(2)

沿線風景 人車の車輌(2)

自家用の人車は途中の各処に置かれていました。線路と直角に車両を置くのは保線関係などでよくあるやり方です。簡単な屋根をつけて置いておく姿は、自転車置き場のようでした。人車の車軸にはヘチマにグリスやエンジンオイルの様な粘性高い油を染み込ませ鋼板で巻いて、滑りを良くするように工夫されていました。

沿線風景 人車の車輌(3)

沿線風景 人車の車輌(3)

順益商號のうらの軒先にも人車置き場がありました。自家用の荷物を運ぶとき、あるいは依頼があったときにここから取り出して走り出します。非常によく整備されていました。通常人車の運行時間は朝6:30(ただし石炭貨車は7:30)から日没まででした。ただし特別に依頼されたときは、夜間でも往復の運賃をもらって運行したことがあるそうです。

沿線風景 順益商号

沿線風景 順益商号

中間地点にあった順益商号は、当時五堵から鹿寮の間で唯一の商店でした。炭砿の労働者は通常つけでここで買い物をして、給料日の15日と30日に支払をしていました。近くには人車を保管した場所もあり、ここから線路が二股に分かれて、直角に曲り鹿寮炭鉱へ更に3.5km、右は華隆炭鉱の抗口へ続いています。

沿線風景 華隆炭鉱入口

沿線風景 華隆炭鉱入口

順益商號から右にのびた線路を少し奥に行ったところが華隆炭鉱の入り口でした。坑内で使用する木材が置かれています。小屋は石炭を積んだ人車の重量を量るところです。石炭は重要な資源なので、ここと五堵で重量を量っていました。途中で石炭を抜き取ることを警戒していたためです。石炭人車を押す労働者は80人位いて、1日10回往復することが基本で日給は40元でした。さらに10回を超えると1回につき5角(0.5元)加算されました。

沿線風景 華新一路(11)

沿線風景 華新一路(11)

人力の鉄道というのは非常に原始的なものですが、高速・大量輸送の鉄道にはない「あたたかさ」が残っていました。もちろん人車を押すという仕事は厳しいもので、暖かい台湾でも雨の日も寒い日であり、大変だと思います。しかし押す人と笑顔で楽しそうに話しながら乗ることが出来る人車はいまでも強い印象が残っています。しかしこの人車は昭和54年(1979年)に鹿寮炭砿がトラック輸送に切り替わるために廃止されました。

▲ 上に戻る