くろがねのみち

最後に製造された国鉄形蒸気機関車

一般には、最後に製造された国鉄形蒸気機関車はE10形とされています。E10形は、昭和23年(1948年)3月に汽車製造でE10 1~E105の5輌が製造されました。当時は敗戦直後の緊縮財政下にあり、機関車の新製は原則として認められていませんでしたが、E10形は勾配区間専用の特殊用途機として、特に製造が許可されたものでした。これが、国鉄用として新規に製造された最後の蒸気機関車となります。同時期に登場したC61形およびC62形は、余剰となったD51形・D52形のボイラーを流用し、旅客用機関車として改造したものであり、完全な新製機とはいえませんでした。さらにその後のD60形、D61形、D62形も、軸重軽減などを主な目的とした改造機であり、新規製造ではありませんでした。しかし実際には、E10形の製造後も、海外向けには国鉄形蒸気機関車が新規に製造されています。昭和24年(1949年)には、旧日本領であった南樺太、すなわちサハリン向けとして、ソ連国鉄用のD51形が30輌製造されました。また、戦前に日本統治下にあった台湾向けにも、D51形およびC57形に相当する蒸気機関車が製造されています。台湾向けでは、D51形に相当するDT650形が昭和26年(1951年)に、C57形に相当するCT270形が昭和28年(1953年)に製造されました。したがって、「国鉄用として新製された最後の蒸気機関車」はE10形ですが、「国鉄形蒸気機関車として最後に新規製造されたもの」まで含めると、昭和28年(1953年)に日立製作所で製造された台湾向けCT270形が最後となります。

ソ連サハリン鉄道向けに製造されたD51形蒸気機関車

戦前の南樺太(サハリン)は日本領であり、製紙・パルプ、炭鉱などの工業が発達し、都市や工業地帯を結ぶ鉄道網も整備されていました。第二次世界大戦後、同地域は実質ソ連が統治する領域になりましたが、旧南樺太の鉄道は日本規格の1,067mm軌間で建設されていたため、ソ連本土の1,524mm広軌用の車輌・部品をそのまま使用することができませんでした。戦後多くの機関車・貨車が使用不能となり、島内の輸送網は機能停止の危機に直面していました。このため、ソ連閣僚会議は対外貿易省に対し、南サハリン運輸通信省向けの鉄道設備を最大600万ドルの範囲内で日本に発注することを許可しました。その資金で昭和24年(1949年)にD51形蒸気機関車30輌が日本車輌、川崎車輌、日立製作所、汽車製造、三菱重工業の5社で製造され、サハリンへ輸出されました。1960年代末までにディーゼル機関車への置き換えが進み、引退後は6輌が日本へ里帰りしましたが、その多くは後に解体され、現在は北海道平取町のD51-23と別海町のD51-27の2輌のみが保存されています。

最後に製造されたC57形

最後に製造されたCT284(1) 最後に製造されたCT284(2)
最後に製造されたCT284(3) 最後に製造されたCT284(4)

アメリカによる台湾援助、中国語での「美援」は、1948年の米国「援華法」(China Aid Act of 1948)および中米経済援助協定に端を発し、1949年の一時的な中断を経て、朝鮮戦争後の1950年以降、台湾向けに本格化した援助制度です。1951年には相互安全保障法(Mutual Security Act)に引き継がれ、その後、米国側の実施機関名は変化しながら、1965年まで続きました。台湾側では、行政院美援運用委員会(美援会、CUSA)が、援助計画の調整、物資の調達・配分、資金運用に重要な役割を果たしました。当時の台湾は深刻な外貨不足に直面していたため、美援は、輸入資材・機械・車輌の調達を支える重要な財源となりました。交通分野も公共建設・経済復興の一部に位置づけられ、台湾鉄路管理局の車輌増備や設備改善にも用いられました。1953年に増備されたCT270形旅客用蒸気機関車8輌も、この資金を利用して日立製作所で製造されました。一部の資料には日立製作所と川崎車輛で製造されたとする記述もありますが、これは戦前製造分のCT270形、すなわち旧台湾総督府鉄道C57形の製造会社と混同したものではと考えられます。1953年増備分のCT277~CT284は、8輌すべてが日立製作所製であったことが、当時の『日立評論』でも確認できます。なお、導入時には「美援」による車輌であることを示すため、デフレクターにマークが掲げられました。台湾には戦前に導入された台湾総督府鉄道C57形、のちのCT270形がすでに存在していたため、戦後増備車もその仕様に合わせ、日本国内ではすでに四次形となっていましたが、あえて二次形に準じて製造されました。これらは1953年6月から7月にかけて完成し、日本で製造された最後の国鉄形蒸気機関車となりました。現在は、二水の二八水公園にCT278号機が、羅東の中興文化創意園区にCT284号機が保存されています。

最後に製造されたD51形

最後に製造されたDT684(1)

戦後の輸送量増加に対応するため、台湾鉄路管理局は昭和26年(1951年)にDT650形を5輌増備しました。これらは汽車製造および三菱三原車輌製作所で製造され、DT683~DT687として台湾に導入されました。このグループは、D51形として最後に新製された車輌にあたります。1951年当時の台湾は外貨が不足していたため、これらの機関車も何らかの外貨資金、あるいは援助資金によって導入された可能性があります。しかし、『中華民国交通年鑑 民国39-49合編本(1950-1960)』の美援関係項目には、この機関車についての記述は確認できません。また、CT270形のようにデフレクターに「美援」のマークを掲げた写真も、現時点では発見できていません。そのため、DT683~DT687の導入資金については、現段階では確定できませんでした。写真のDT685は最終番号機ではありませんが、汽車製造で1951年5月24日に完成しており、実質的には最後に製造されたD51形と考えられます。

なお、中国語版Wikipediaの「D51」には、DT650形の戦後増備分について「国連援助」とする記述がありますが、その根拠となる資料は注記されていません。国連援助として考えられる組織の一つに、UNRRA(United Nations Relief and Rehabilitation Administration、連合国救済復興機関)があります。UNRRAは1943年に、第二次世界大戦で被害を受けた地域への救済・復興援助を目的として設立されました。中華民国では、UNRRA物資を受け入れ、配分・調整する機関として、1945年1月にCNRRA(Chinese National Relief and Rehabilitation Administration)が設立されました。しかし、UNRRAの中国事業には台湾を対象としたものも含まれていたものの、主な対象は戦後直後の中国大陸における救済・復興でした。また、UNRRA中国事務所の活動は1947年末に終了し、残務処理も1948年までに完了しています。DT683~DT687の導入は1951年であり、UNRRA/CNRRAの主要な活動時期とは合致しません。したがって、中国語版Wikipediaにいう「国連援助」がUNRRAを指すのであれば、時期的には成立しにくいと考えられます。さらに、UNRRA後の国連援助はUNESCOやILOなどの専門機関による技術援助へ移行しており、国連特別基金による大型援助も1958年開始であるため、DT650形の導入時期とは合致しません。以上のことから、DT683~DT687が何らかの援助資金または外貨資金によって導入された可能性は残るものの、現時点では「美援」「国連援助」「UNRRA援助」のいずれであったかを示す一次資料は確認できません。今後は、台湾側の交通部・台湾鉄路管理局関係資料に加え、日本側の輸出許可資料、汽車製造・三菱重工関係資料、ならびに当時の駐日中国代表団関係資料を確認する必要があります。

ところで、これらのD51形より前の昭和21年(1946年)には、昭和19年(1944年)に台湾総督府向けとして製造されながら、戦時中に制海権を失っていたため台湾へ輸送できず、日本国内で使用されていたD51形を輸送しています。これらはDT678~DT682となりました。戦時中の製造ではありましたが、外地向けの仕様であったため、外観は二次形と同様でした。しかし、やはり戦時中の資材事情の影響を受けていたためか、比較的早く廃車になったようです。

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