Kurogane No Michi
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大正の終わりごろの蕨の鉄道

蕨地図
国土地理院発行の2万5千分の1地形図(赤羽)
大正6年測図、大正8年発行より
当時の北足立郡蕨町は人口7,140人(大正14年国勢調査)ほどで、大正14年度の乗降客は1,033,188人、貨物は発着30,370トンの取扱量でした。鉄道はすでに複線になっていましたが、すべて蒸気機関車の列車でした.昭和7年に電化され、今の京浜東北線が開通するまでは、上野からの東北本線や高崎線の列車が停車していました.そのころは赤羽を出ると次は川口町(現川口)、蕨、浦和、与野、大宮の順で、西川口や南浦和、北浦和はまだありません.蕨駅も西口だけで東口側はすぐにたんぼが広がっていました.町の中心部は中山道沿いで、鉄道の沿線で家があるところと言えば、駅前通り(旭町から御殿町)と、いまの東小(当時第二蕨尋常小学校)から線路を渡ってスポーツクラブ「ルネッサンス」があるあたりへ通じる道沿い(当時の塚越は、現在の南町と中央の方までありました)だけでした.学校も北小(当時第一蕨尋常高等小学校)と東小の2校だけです.
日本鋳鉄管(現在の蕨市民公園、昭和12年)、日本車両(現在の芝園団地、昭和9年)、沖電気などの工場もまだできていません.

列車ダイヤについて
詳細は別ページの「大正14年の蕨駅時刻表」をご覧ください.当時清水トンネルはまだ工事中で、上越線は上越南線(新前橋~沼田)と上越北線(宮内~塩沢)に分かれていました.そのため昭和6年に清水トンネルが開通して上越線が全通するまで、新潟方面へは長野・直江津経由あるいは郡山・磐越西線経由の列車が走っていました.そのほか両毛線方面を経由する列車が多いのも今と随分事情が違います.なお急行列車はまだ愛称がなく、特急もありません.それでも全部の列車に2等(現在のグリーン車に相当)と3等が連結されています.寝台車は、まだ1等と2等だけで3等の寝台車はその後昭和6年の登場です.

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