くろがねのみち

基隆炭鉱鉄道

五堵駅から基隆河を渡った場所に、軌間610mmの炭鉱鉄道―基隆炭鉱鉄道がありました。私がまだ中学生だったころ、「けむりプロ」が雑誌『蒸気機関車』(当初は季刊、のちに月刊)でこの鉄道を紹介していたのを覚えています。高校生になる頃には『鉄道賛歌』が出版され、そこに収められた生活のぬくもりが伝わる美しい写真の数々に、私は深く憧れました。 とはいえ当時は、遠く手の届かない夢のような存在で、自分が実際に訪れることなど想像もしていませんでした。 ところが、1970年代末になると海外旅行も身近になり、憧れが現実となる時代が訪れます。ただし、当時の台湾はまだ戒厳令下にあり、鉄道施設の撮影にはスパイ容疑で警察や憲兵の取り調べを受けたり、フィルムを没収されたりする危険が常に付きまとっていました。(以下に掲載する写真は、いずれも1976年12月2日に撮影したものです。)

縱貫線五堵駅(プラットホームと側線)

縱貫線五堵駅(プラットホームと側線)

当時の五堵駅は、蒸気機関車で基隆河の対岸まで運ばれ、そこからケーブルで河を渡ってくるものと人車で運ばれてくるものがありました。そのため貨物の側線があり、いまよりずっと広い構内でした。電化はまだ先で気動車や機関車牽引の列車が走っていました。この機関車は台湾鉄路局最初の電気式ディーゼル機関車R0形1号機のR1で、1959年日立水戸工場製です。台湾に納入される以前、この機関車は日本国鉄のDF911として水戸機関区に所属し、常磐線で約1か月間の性能試験が行われました。日本と台湾、両国の国鉄線路を走行したという意味で、非常に記念すべき存在です。現在、R0形機関車はすべて廃車されており、R6号機のみが苗栗火車頭園区で保存されています。

縱貫線五堵駅(基隆寄り)

縱貫線五堵駅(基隆寄り)

駅の基隆側には長い測線に石炭を積み込むためのベルトコンベアーが空中に突き出ていました。五堵駅は現在高架化されていますが、基隆方面と台北方面の2線のほか、基隆寄りにある台鉄の鉄路改建設工程局の貨車、保線車輌置き場があり、そこへ通じる貨物線が1線あります。

縱貫線五堵駅(貯炭場)

縱貫線五堵駅(貯炭場)

運ばれて来た石炭は、貨車から貯炭場に移され山になっています。そして右下に見えるベルトコンベアーで台湾鉄路管理局の貨車に積み込まれます。

五堵駅側線の貨車

五堵駅側線の貨車

炭鉱鉄道の石炭貨車は側線に置かれています。手前にある木材は、炭鉱で使用するために置かれています。坑口から出た貨車は石炭を満載していますが、ここで空になって、そのまま回送するか、炭鉱宛の木材が積み込まれる場合があります。

基隆河の橋

基隆河の橋

当時基隆河には、3本の橋が架けられていました。石炭を積んだ貨車のケーブルカーの橋、歩道だけの橋それから人車軌道の橋でした。みな同じような構造の吊り橋でしたが、人車の橋は少し離れたところに架けられていました。 人が歩いて渡る橋や人車軌道の橋も、今から考えると細いワイヤーで吊された吊り橋で、渡るにはかなり心細い橋でした.下を流れる基隆河は昔も今も変わらない暴れ川で、21世紀になっても水かさ3メートルを超す洪水がこの地区を襲いました。

基隆河上の石炭貨車

基隆河上の石炭貨車

ケーブルで送られる貨車も連続で橋を渡っていきます。左側(基隆側)に歩道だけの橋が見えます。

ケーブルへの連結作業

ケーブルへの連結作業

橋を渡ると、貨車をワイヤーに連結する作業が行われていました。左端に写った子供の服は、どう見ても日本風の浴衣か何かの様です。洗濯物も干してあり、こちらに住宅があったようです。

縱貫線五堵駅

縱貫線五堵駅

ケーブルの連結作業は、炭鉱の坑内作業に比べれば体力を必要としないので、女性の仕事でした。

鉱車総站(1)

鉱車総站(1)

鉱車総站とよばれる貨物駅兼機関区です.修理と点検を行うため、蒸気機関車やたくさんの貨車が置かれていました。後ろ側には、台湾最初の高速道路として建設中のマッカーサー道路(現在の中山高速公路台北~基隆間)が見えます。この道路は1977年7月の開通なので、まさに最終段階の建設の最中でした。この道路と近くの陸軍駐屯地のため、警察官に声かけされ、撮影しないように注意されました。

鉱車総站(2)

鉱車総站(2)

ドラム缶などが雑然とおかれています。左には給水塔があります。材木を運ぶ平台貨車があります。

鉱車総站(3)

鉱車総站(3)

構内はわりに広く、事務所も立派です。石炭貨車以外にも、平台貨車や右には屋根と簡易な腰掛けがある車輌があります。この鉄道は貨物専用線ですが、便乗なのか、便乗者も見かけました。

鉱車総站(4)

鉱車総站(4)

機関車のボイラーを貨車に乗せて屋根を付けたものがありした。これは何をするものか分かりませんが、非常に興味深いものでした。

鉱車総站(5)

鉱車総站(5)

片隅には、廃車された機関車や使われなくなったボイラーが放置され草に埋もれていました。それがまた、かえって廃止寸前の軽便鉄道の雰囲気を盛り上げるものになっていたと思います。

鉱車総站(6)6t機関車

鉱車総站(6)6t機関車

動く機関車は手入れが行き届いたとは言い難い状況でした。かろうじて動いているというのは言い過ぎかもしれませんが、どうはた目から見てもそんな状況だったと思います。この機関車は、大阪の楠木製作所が製造した6tタンク機関車です。同形の機関車は76両製造され、日本国内だけでなく台湾、朝鮮、樺太の炭鉱や工場で使用され、基隆炭鉱も2両納入されました。この機関車も昭和10年代に製造されたと思われますが、詳細な記録はありません。

沿線の風景(1)

沿線の風景(1)

鉄道はこの先で左に曲り、高速道路をくぐりますが、それまでは併行して敷設されています。ちょうど現在の基隆市と新北市の境界付近です。現在は道路になっていますが、当時も道路併用でどろんこ道です。もう警官も憲兵もいなので、ちゃっかり撮影しています。

沿線の風景(2)

沿線の風景(2)

高速道路のアンダーパスは現在も道路として使用されています。当時は機関車の煙で黒くなっていました。

沿線の風景(3)

沿線の風景(3)

先ほどのハイウエーの下をぬけた先は、現在は道路が拡幅されて無くなっていますが、岩石質の切通でした。すでに貨物の本数はだいぶ少なくなっていたことと、ハイウエーに近く撮影が難しい場所なので、ここでの列車の撮影はあきらめました。

沿線の風景(4)

沿線の風景(4)

鉄道はだんだん山に入って行き、田園風景に一変します。鉄道と人車は併行しているわけではなく、接近し、また離れていきます。鉄道に沿った道路は舗装されていますが、幅がせまく、自動車は見かけません。ここを通るのは、自転車やオートバイ、せめてオート三輪だけでした。

沿線の風景(5)

沿線の風景(5)

基隆河の支流の友蚋渓(鹿寮渓)も近づいたり離れたりしながら鉄道に沿って流れています。奥に行くときれいな渓谷のある川でした。

沿線の風景(6)

沿線の風景(6)

ちいさな子どもが箒と塵取りを持って掃除をしています。そのうしろはで他の子どもが遊んでいました。線路沿いは遊び場でもありました。

友蚋分站(1)

友蚋分站(1)

この鉄道は単線ですが、途中に友蚋分站とよばれる、列車の行き違いのための設備がありました。以前は貨物が多く、ここももっと大きな設備だったようですが、交換のための2線だけになっていました。この機関車に限らずどれも色々なところから蒸気が漏れているました。5.5tで大阪の川副機械製作所(台湾語の発音で鍛冶と当てられ鍛冶機械製作所とも言われている)製造で4輌納入されたうちの1輌です。

友蚋分站(2)

友蚋分站(2)

機関車には砂箱がなかったのか、あるいは故障していたのか、人が手作業で砂を撒く姿が見られました。 ここには機関車に給水する設備もありました。先に到着した機関車はしばし休憩を取りますが、再び走り出すときには、重い貨車を牽引しながら空転と戦わねばなりませんでした。機関車には砂箱がなかったのか、あるいは故障していたのか、人が手作業で砂を撒く姿が見られました。

友蚋分站(3)

友蚋分站(3)

ちょっと良く覚えていないのですが、ここで機関車が交代したのか、写真では貨物を連結していません。それにしてもいろいろなところから蒸気が出ていて、機関車が見えなくなるほどでした。

友蚋分站(4)

友蚋分站(4)

水牛が機関車を追い抜いて行きます。当時はまだ農耕作業や荷車をひいている姿をいろんなところで見かけました。現在の経済発展した台湾の姿からは想像もできないのどかさです。

沿線の風景(7)

縱貫線五堵駅

坑口にむかう貨物列車は、炭坑施設で使用する木材杭と回送の空の石炭貨車を運びます。貨車にはたぶん炭坑関係者だと思われる背広を着て帽子をかぶっている人が乗っていました。

沿線の風景(8)

沿線の風景(8)

走っているときも空転防止のため手で砂をまいていました.あまり速度が出ていないとはいえ、走る機関車につかまりながら砂をまくという危険な作業です。

沿線の風景(9)

沿線の風景(9)

坑口から出炭した石炭貨車を運ぶ場合は、機関車も力を出してかなり重そうでした。右側には友蚋渓を渡る友諒橋と人車の橋があり、ここで直角に交差しています。この橋は広く拡張され、バスも通る道になっています。

沿線の風景(10)

沿線の風景(10)

炭坑の坑口に向かう貨車の積み荷は空の炭車の回送と木材で、随分軽いのではないかと思いますが、それでも前部には砂を撒く人が乗っており、かなりの迫力でした。残念ながらこの炭坑鉄道は翌年1977年に廃止されました。

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