
ダージリン・ヒマラヤン鉄道
ダージリン・ヒマラヤン鉄道について
ダージリン・ヒマラヤン鉄道は610mm軌間の軽便鉄道ながら、海抜119mのシリグリから海抜2,044mのダージリンまで登る世界有数の登山
鉄道です。1878年に東ベンガル鉄道の代理人フランクリン・プレステージ(Franklin Prestage, 1830–1897)がダージリンへ2フィート軌間
(610mm)の山岳鉄道案を提案し、1879年に認可を得て Darjeeling Steam Tramway Co.(のち Darjeeling Himalayan Railway Co.)を設立
しました。当時は、コルカタからシリグリへの幹線は東ベンガル(現バングラデシュ)経由で鉄道と連絡船を乗り継ぎ、ノース・ベンガル
鉄道(メーターゲージ)でシリグリに至るというのが唯一のルートでした。鉄道建設は1879年にコルカタの商社・請負業Gillanders, Arbuthnot
& Co. が担当して着工、1880年にシリグリからクルセオン、1881年にダージリンまで82.1 kmが開通しました。地理的にはダージリンは
西ベンガルですが、建設に東ベンガル鉄道が関与したのは以上のような経緯によるものです。
約2年で全線開通した背景には、当時のイギリスの国力もさることながら、この鉄道にはトンネルが一カ所もなく路線のほとんどを
既存の道路にそって建設したためだと言われています。線路は等高線に沿って少しずつ登っていき、どうしてものぼれない区間では、
ループ線やスイッチバックで切り抜けています。
インド独立後の1948年に会社(DHR Co.)はインド政府に買収され国有化されました。そしてのち国鉄組織へ編入されます。1952年
から1958年の間にインドの鉄道は組織再編があり、ダージリン・ヒマラヤン鉄道はNorth Eastern Railwayに入り、その後Northeast
Frontier Railway(NFR)に移管され、現在に至ります。1964年にシリグリ側をニュー・ジャルパイグリ(NJP)まで延長し線路の付け替
えが行われ、全長は88kmに延長しました。以降、この区間が鉄道運行の基本となりました。1993年に貨物輸送が道路輸送へ移行したため
廃止されましたが、1999年にユネスコ世界遺産(「インド山岳鉄道群」)に最初に登録されました。現在は1997年に製造されたディー
ゼル機関車により運行されていますが、観光目的でダージリン~グーム往復の“ジョイライド”は主に蒸気機関車で運行されています。
ダージリン・ヒマラヤン鉄道の蒸気機関車について
ダージリン・ヒマラヤン鉄道の蒸気機関車はA・B・C・Dの4形式が知られています。主力のB形は番号は当初DHR17~30、32~36、39~53の 34輌です。のち1957年に当時すでに廃車になっていたDHR 17、20、23、29を除き、現在の番号777~806に改番されました。製造は1889 年から1927/1928年にシャープ・スチュワート(777~785)、ノース・ブリティッシュ(786~791、798~806)、ボールドウィン(792~794)、 およびダージリン・ヒマラヤン鉄道のティンダリア工場(795~797)です。煙突の後のサドルタンク、運転台前のボイラー両脇に張り出した 石炭庫という他に類をみない独特の外観で知られます。他の型式はA形(0-4-0WT)が初期主力で最終廃車は1954年、C形(4-6-2)は支線用 の2両、D形(ガーラット)は1両の少数派でした。
ダージリン・ヒマラヤン鉄道路線の特徴
ダージリン・ヒマラヤン鉄道はヒル・カート・ロード(国道110号)の脇を並走して進みます。亜熱帯の平野部を抜け、スークナ (Sukna)からは急峻な山岳路線となり、クルセオン(Kurseong)市街では街道沿いの商店の軒先すれすれを通過。そこを抜けると 茶畑の段々畑の中を進み、最高地点標高2,258mのグーム(Ghum)駅を越えたのち、展望名所のバタシア・ループでカンチェンジュンガ を遙かに望み、再び街路沿いの景観となってダージリンの町に入ります。ほぼ道路に併行ですが、道路では急勾配・急カーブとなる 場所はループ(現存:Chunabhatti(チュナバッティ)、Agony Point(アゴニー・ポイント)、 Batasia(バタシア)の3か所)と スイッチバック(Zリバース6か所)で克服しています。なおループ1は1991年洪水による土砂崩れにより撤去、ループ2は1942年の 洪水で撤去され、代替としてリバースNo.1が設けられました。